第5回ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)で、侍ジャパンは3大会ぶりの優勝を果たし、大会MVPに選ばれた大谷翔平選手。
メジャーリーグエンゼルスでも二刀流で大活躍中!!この前代未聞の記録の達成の裏には、高校時代の環境や過ごし方が大きく影響しているようです。
今回はそんな大谷翔平選手がどんな高校時代を過ごしてきたのかその秘訣に迫ってみました!!
画像出展元:河北新報
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高校入学時に「163キロの球を投げる」という目標を立てた!!
高校生のころからピッチャーとして活躍してい大谷選手は、当時高校野球で最速の160キロの球をマーク。大型右腕として注目されていました。
毎日真面目に黙々と練習を重ねていたようで、チームを引っ張る存在でした。
当時から食事にも人一倍気を使っており、炭酸飲料やカップラーメンは一切口にしないというポリシーがあり、寮ではほとんどテレビも見ず、ゲームもしなかったようです。
「はやりの音楽なんて、ほとんど知りません。野球のことばかり考えていました」と話すように、かなりストイックな生活を送っていました。
高校入学時に「163キロの球を投げる」という目標を立てていたようです。160キロまでは到達できましたが、あと3キロ足らなかったようです。
「少し高めに目標を設定したことが良かったのだと思います。周囲が無理だと言っても気にせず、自分の力を信じて投げ込んだ結果です」と振り返っています。
高校時代から「まずは国内で結果を残し、将来はメジャーで長く活躍できる選手になります」と将来を思い描いていました。
画像出展元:web Sprtiva
母 加代子さんが思い出す“高校時代の大谷翔平”
ピッチャーと野手の二刀流。誰もやったことのないことを求めた末に立てた目標。
大谷翔平選手の母、加代子さんの言葉
- 昔から翔平には人のできないことをやってみたいという冒険心があった。
- 花巻東に入るとき、菊池雄星君たちの代で全国優勝していたら違う高校に入っていた。と言っていた。
- 高校から直接、メジャーに挑戦すると言ったときも『パイオニアになりたい』と言っていた。
「まずは国内で」という気持ちから変化があり、高校を卒業してすぐにメジャーを目指そうとした大谷翔平選手に【二刀流】という前代未聞ファイターズが新たな夢を提示しました。
「プロを舐めるな!!」「二刀流なんて通用するわけがない!!」と逆風が吹き荒れる中、二刀流に取り組んできた大谷翔平選手にしてみれば、紆余曲折あった日本での7年間だったはずです。
画像出展元:子供応援便り
大谷翔平選手が花巻東高校に決めた理由とは!?
大谷翔平選手が花巻東高校に決めた理由を語ったとあるインタビュー記事です。
「雄星さんたちが日本一になっていたらどうだったかというのは、実際に日本一になったのを見ていないので、どうしたのかはわからないんですけど、でもあの代が日本一になっていなかったことが(モチベーションになっていた)というのはあったんじゃないかなと思います。自分たちの手で(日本一をつかむ)というのはありました」
「練習を見て、やっぱりいいなと思いました。雰囲気がよかったんです。チーム全体の雰囲気もよかったですし、いい練習をしていました。甲子園に行くとか、行かないとかいうことも大事ですけど、いち選手としての技量を上げるために大事なことってあると思うんです。そのいち個人の、選手としての能力を伸ばす練習としても、すごくいいんじゃないかなと思いました。今は効率的な練習が大事じゃないですか。部員も多いですし、レギュラーの子とそうじゃない子の統率をしっかりとってやっていかないと、人数の多いチームはうまく回って行かないと思うので……」
引用元:NumberWeb
画像出展元:web Sportiva
花巻東高校 佐々木監督の教えとは!?
花巻東高校に入学した大谷翔平は、そこで監督の佐々木洋と出会いました。
大谷翔平の記憶に残る佐々木監督の最初の印象は、言葉ではなく「目力です(笑)。監督って、目が、カッとしているじゃないですか。第一印象は目力がすごいなって思いました」
花巻東高校に入学した大谷は、体づくりを優先させて、ピッチャーではなく野手として試合に出た。1年の春から4番を任されていたのだが、佐々木監督はじつはバッターとしての大谷翔平にはさほど期待していなかった。
菊池雄星のような選手は岩手からは二度と出てこないと思っていた佐々木監督だったが、菊池雄星が卒業した途端、「ダルビッシュ有みたいな」(流石裕之部長)1年生が入学してきたのだから、佐々木監督も信じがたかったのしょう。
大谷翔平自身もピッチャーへの意識が高かったこともあって、佐々木監督と大谷はピッチャーとしての高い目標を設定する。それが、160kmを投げる、ということだったようです。(個人的は目標は先述した163キロです)
「できないと決めつけるのは自分的には嫌でした。160kmを目標にしたときも、できないと思ったら終わりだと思って、3年間やってきました。高校のときに160kmを投げるのも、日本一になるというのも、メジャーへ行く目標の前にあったわけじゃなくて、それぞれがまったく別の道のうちの一つでした。なので、当時の僕は日本一になることを全力で追っていましたし、そうなればこっち(メジャー)にも近づく、という感じだったと思います」
佐々木監督からは「雄星はこうだった」と事あるごとに言われてきたようです。
大谷翔平を育てるにあたって、菊池雄星のときの経験を参考書として使わせてもらった、と佐々木監督が話してくれたことがありました。
大谷翔平が入学してきたとき、目標を“160km”に設定したのも、“プロ8球団からの1位指名”を掲げたのも、6球団から1位で指名された菊池を越えるところに目標を設定しなければ菊池の域にも達しない、という佐々木監督の想いから紡がれた道しるべだったようです。
画像出展元:J-CAST ニュース
大谷翔平選手の言葉
「もし僕が1年生で入ったときに雄星さんが3年生でいて、3年生の雄星さんを見ながらやって、僕が3年生になったときにそういうふうに(菊池の育て方を参考書として)やってもらったのなら僕にもわかったと思うんですけど、
僕はその(菊池の育て方の)過程をまったく見ていないので、何がどうなっていたのかはわからないんです。ただ、監督から『雄星はこうだった』ということはすごく言われましたし、それはよかったと思っています。
嫌だなと思ったことは一度もありませんし、プレッシャーだなと思ったこともありません。自分は自分だと思ったこともないので……」引用元:NumberWeb
有名なアスリートや芸能人、起業家等の「自分は自分だ!」といった発言をよく耳にします。
人と比べるのではなく、自分は自分と考えることも一種の成功マインドかもしれませんが、「自分は自分だと思ったこともない」
という言葉に大谷翔平の全てを表していると感じます。実に彼らしい唯一無二の考え方ですね!!